「大河の一滴」(五木寛之/幻冬舎文庫)より

 本当のプラス思考とは、絶望の底の底で光を見た人間の全身での驚きである。そしてそこへ達するには、マイナス思考の極限まで降りて行くことしか出発点はない。私たちはいまたしかに地獄に生きている。しかし私たちは死んで地獄へ堕ちるのではない。人はすべて地獄に生まれるのである。鳥は歌い花は咲く夢のパラダイスに、鳴物入りで祝福されて誕生するのではない。
 しかし、その地獄のなかで、私たちはときとして思いがけない歓びや、友情や、見知らぬ人の善意や、奇跡のような愛に出会うことがある。勇気が体にあふれ、希望や夢に世界が輝いてみえるときもある。人として生まれてよかった、と心から感謝するような瞬間さえある。皆とともに笑いころげるときもある。
 その一瞬を極楽というのだ。極楽はあの世にあるものでもなく、天国や西方浄土にあるものでもない。この世の地獄のただなかにこそあるのだ。極楽とは地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光りながら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。人が死んだのちに往く最後の場所では決してない。「地獄は一定」
 そう覚悟してしまえば、思いがけない明るい気持ちが生まれてくるときもあるはずだ。それまでのたうちまわって苦しんでいた自分が滑稽に、子供っぽく思えてくる場合もあるだろう。
リファレンス

「私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思いこんでいる。それを用意してくれるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう」と作家、五木寛之は同書で断言する。そして、この混迷の時代だからこそ、人生とはそもそも苦の連続なのだと覚悟するところから出直す必要があるのではないかと問いかける。その背景には五木が一時休筆までして学んだ仏教思想がある。
 「地獄は一定」は親鸞の「嘆異抄」の中に出てくる有名な言葉。上記はその言葉を著者なりの解釈を加え、現代社会に照らし合わせ、誰にでもわかるように、詩的なまでにシンプルにして解説している部分とも言える。
 本書は著者の感覚をフィルターにしてかびくさい仏教を現代バージョンにして生き生きと蘇らせたエッセイ集ともいえるのだ。この種のエッセイ集は他に「他力」(講談社)、「人生の目的」(幻冬舎)などがあり、いずれもバブル崩壊後に出版され、ベストセラーとなっている。
 日本を代表する大衆作家のまさに真骨頂とも言うべき作品群である。
★作者紹介
 五木寛之
 1932年生まれ。生後まもなく朝鮮にわたり終戦後引き揚げ。早稲田大学中退。代表作に「青春の門」「さらばモスクワ愚連隊」「戒厳令の夜」「風の王国」など。訳書に「かもめのジョナサン」など。81年に一時休筆して龍谷大学にて仏教を学ぶ。85年より執筆を再開した。