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No.1「(お)勝手が違う話」(2001/06/12)
食事に呼ばれて見当がつくようになった。
ぴかぴかに磨きたてられた中流家庭の台所を覗いたら、その日はハズレだ。
食事の前の飲みものと歓談のひとときのスナックは、ポテトチップスかビーナツで、メインの料理は必ずオーブンから出てくる。デザートはきっと市販の冷凍のアップルパイにアイスクリームか、頑張って自家製ケーキだろう。
何も、オーブンに恨みがある訳ではない。そこから出てくる料理が必ず肉の塊だというだけのお話である。「日本人は生魚を調理しないで食べるだけで楽よねー。もっとも私達もお肉をオーブンに入れるだけだけど あっはは」などと言われた日には、西洋文化と東洋文化の接点が一気に遠のき「あ。。あ。。人類は永遠に分かりあえ無い」と空しくなるものだ。
肉の塊と言えばお父さんの登場である。嬉しそうにナイフをふりかざし、独り独りに希望の量を切り分けてゆく。狩猟民族の血が騒ぐのであろう。
お母さんの仕事はここで終了である。お母さんは野菜を洗い(洗っていないかもしれないが)肉と一緒にオーブンに入れただけである。
大体、この広大な人の住んで居ない大地で、のんびり育った牛や羊の肉が抜群に美味しいなんて筈はないのである。空気がきれいだって牛は空気を食って生きている訳ではないのだ。
堅い。。。のだ。噛みしめる程に味わいは。。。ないんである。飲み込める様になるまで咀嚼するだけで、半日分の体力が消費するという感じだ。そして塩と胡椒で食べる「焼いただけの野菜」は、素材の味を生かし過ぎだ。
めいめいに食事が配られたら、あとは誰かがひとくち食べて、「素晴らしい」とか「すごく美味しい」とお決まりの言葉をいう事になる。それが鋼鉄ローストビーフであったにせよ、一度口に入れた人は必ず言わなければならない。日本人が丁寧で礼儀正しいなんて話しを聞くが、私に言わせたらこの食事の儀式は丁寧を通り越し嘘つきの域である。こんな食べ物を、持て成し料理と呼び(呼ばないか?)賞賛の言葉に満更でもないお母さんは謎である。
やっとの思いで皿の料理を平らげ、強く勧められるおかわりも必死で断り、デザートに持ち込む。
市販の冷凍アップルパイなら嬉しいものだ。鋼鉄ローストビーフを忘れさせてくれる程美味しく感じる。そしてお決まりの儀式もしなくていい。
食事が終われば当然後片付けなのだが、この段階でも「調理をした」お母さんは当然のごとく、ワインを片手にゲストと歓談しているものだ。お皿を洗うのは当然「調理をしていない」お父さんの仕事になる。
キッチンのシンクに洗剤とお湯を溜めて、ゴム手袋をしたお父さんは日本で言う所の靴洗いブラシの様な形のブラシを片手に、突然皿をシンクに沈めワシワシと洗い始める。泡だらけの食器はそのまま食器の水きり籠に入れられ、ゆすがれないままキッチンタオルで拭かれ食器棚に仕舞われる。衛生観念は国によって違うが、洗剤で洗った食器は清潔で、洗剤は清潔なのだから多少皿に付いていようが、それは問題ではないのである。洗剤を食べる事になると思わないのか?と聞いてみたが、「なーに。一生かかったって大した量を食べる訳ではない。なんたって洗剤は清潔なんだ」と言われてしまう。お父さん。手は荒れても胃袋は荒れないのですね。そしてお母さん。あなたは調理って言葉を知っていますか?
最近では日本の台所でもまな板と包丁が消えて、そんなものを使わないでも生活ができると聞いた事があるが、何しろ「おもてなし料理」の話しなんである。
日本でまな板と包丁のない家庭では、まさか人をお持て成しはしないだろう。でも、所変わればそういう事もあるのである。台所がピカピカなのは、余計な調理器具がない事と、余計な時間を調理に使わないので、台所はいつでもよごれないのだ。
(お)勝手が違う。
ニュージーランドの台所事情である。
フローレンス@NZ
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