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No.9「何もしない贅沢」(2001/12/20)
「ただゆっくりと流れる時間に身をまかせる。大自然に身をゆだね、何もしない贅沢が最高の優雅なひととき」
人々はその美しい女の人が微笑むポスターを見ながら、「休暇を取ってこんな南の楽園でゆっくりしたい」などと目を細めて考えるのだろう。
最新の物にあふれた狭苦しいマンションで暮し、すし詰めの通勤電車にゆられ
仕事が終わって家に帰宅し、垂れ流しのせわしなく騒がしい、テレビのバラエティ−番組を見ている暮しの目には、「ゆっくり流れる時間に身を任せる」のは至福の贅沢に写る事に違いない。
日本では否応無しに一方的に与えられる情報を見て、24時間空いている店で買い物をし、日々の暮しの日常の中で、何も考えずに流れにまかせ生活する事が可能である。そしておいてきぼりの疎外感や孤独を味わわない為に、友人知人とつねにメールや携帯でつながり、また人と会って雑談する。
そんな生活に人々は疲れ、疑問を感じ癒しを求め旅にでる。旅をする事は一種の人間の精神浄化の為に必要な摂理なのかもしれない。
時々、「ニュージーランドでゆっくりしたいわ。ビーチで寝そべって何もしないで 。。。 時々羊と戯れて。。。」なんて日本の友人達がのたまう。
まさか彼らは、私達が毎日ビーチに寝そべって極楽浄土の生活を満喫しているとは
思ってはいないだろうが、確かにこの国は「大自然の懐に抱かれて」の観光ポスターのイメージが先行する。
事実それはその通りで、おとずれる観光客の期待を裏切る事は少ないのだが、そんな彼らだって、「ニュージーランドは退屈ですることがないわ〜」などと言い放ち一週間後には日本に去ってゆくのが恒だ。
「何も考えずに流されて行く日常」の不安に対して「何もする事のない」苦痛がある事を御存じだろうか?
最近多くの日本の若者がアジアやアフリカを目指し、極貧の旅で現地の人々と交流するのがはやっている様だが、実は彼らが戦っているのは、極貧でもなく、不衛生でもなく、不等な仕打ちでもなく、「何もする事のない」中で、思考する事の苦痛なのだ。する事はないと人は思考する。だが、思考をしつづけるには忍耐と孤独と戦う勇気が必要になる。だいいち一年も二年も考え続ける事などたいていの人にはないはずだ。
ニュージーランドに長く生活する日本人達は、「する事のない」苦痛と毎日戦っている。
地下鉄も、ディズニーランドも、デパートも知らない現地の人々には、比較の対象がもともとないのだから、別に退屈を持て余す必要なない。
生まれた時からの時間と生活を当たり前に過ごすだけだが、その与えられた便利さと、選択の多さの快適さを知っている身には話しが違う。
最近はやりの「自然保護」とか「リサイクル」とかの小手先の偽善的な思考は、物にあふれ自然を破壊し海を埋め立ててテーマパークを楽しんでいる人々の罪の意識を多少やわらげる程度にすぎないと感じる。
上りつめる事だけを目標にして来た先進国の人々は、今この小さな罪の意識を皆が感じ始めている。それは本当に大切な事なのだが、自分達がもとめて止まない快適さや飽食を、これから一生続く「何もしない贅沢」などと交換する勇気があるだろうか。
罪の意識を感じながらも私は 「快適さと飽食と地下鉄の走る都市」への旅を止める事ができない。地球の楽園などという場所の存在しない事をしっていながら。。。。
フローレンス@NZ
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